ゼミについて~川嶋先生寄稿~

 

ゼミについて、少し書いてみます。明治政経のゼミ試は熾烈のようで、募集する側のゼミ生達は、「ゼミが大学生活の基本!」とか「ゼミに入ることでこんなに学生生活が充実!」とか「ゼミに落ちたら人生まずいよ!」とか色々煽りが凄くて、2年生の人は、「そうなのか、ゼミに入らないと大変なことになるのかも…」と考えるのかも知れません。

 

果たして、本当にそこまで大事かどうか、ゼミの担当教員である私自身は、よく分かりません。ですが、本当にそうなら、教員の責任は重大です。この重大さは自覚していなければならないと思っています。だから、ゼミについて、教員としてどう考えているのかについて、ゼミ生からのリクエストもあって書いてみることにしました。

 

なおこの文章は、第一には私のゼミに応募する明治大学政治経済学部2年生の人たちを対象として書いていますが、私の教育に対する考えなども触れているので、一般の人が読むこともある程度想定したものになっています。

 

 

やや長文ですが、どうぞお付き合いのほどを…。

※注:赤字はリンクです。

 

ゼミって何?

 

ところで、ゼミってなんでしょう? 何をいまさら、と思うかもしれませんが、私にとって、この問いは大変重く難しい問いであり続けています。なぜかといえば、まず、ゼミとはその内容や形態が千差万別で、大学、学部によってかなりの開きがあり、統一した理解がないからです(木寺先生の、ゼミに対する文章はとても読ませます。是非ご一読を!)。さらに、何よりも私は「ゼミ」というものを経験してこなかったからです(ゼミ制度がない大学で学んでゼミのある大学に赴任して戸惑う、というのは私だけの話ではないようです)。

私はとある国立大学の法学部で政治学を学んだのですが、そこには「ゼミ」という制度はありませんでした。あったのは、通年四単位の演習で、必修ではありましたが卒論はなかったし一年で終わりでした。また単なる授業といえば授業なので、「入室」という言葉もなく申し込めば履修できるものでした。各学期末に懇親会みたいのは開かれた記憶はありますが、その演習に所属している感覚はありませんでした。内容は、専門的な文献を読む訳ですが、ディスカッションというよりも、読んでいた文献が非常に難しく、理解できなかった内容を先生に解説してもらうような形で進んでいました。

 

こう書くと多くの学生さんはつまらない授業だと思うかもしれません。しかし、このスタイルは、戦前から続く伝統的な大学の教育スタイルです。最近読んだマーク・リラ『難破する精神』という本の中に、現代アメリカの政治エリートに多大な影響を与えた哲学者のレオ・シュトラウスの話が出てくるのですが、シュトラウスがやっていた授業はそのようなスタイルで、現実の政治に関するディスカッションなどをしていた訳ではない、という記述が出てきます。何度読んでもちんぷんかんぷんだった内容が、先生の解説によって鮮やかに理解できた瞬間は何度もあり、その瞬間の知的快感は得難いものがありました。ちなみにその時に履修していた演習の専門分野は、3年生の時はアメリカ政治史(前期のみ。後期は丸山真男と福沢諭吉の本を読みました)、4年生は西欧政治思想史でした(古典を読むというよりも、アイデンティティ・ポリティックスといった政治理論的な文献が多かった記憶があります)。国際政治も、国際関係史もありませんが、そのような演習は開講されていなかったので(当時から、ヨーロッパ政治史に一番興味があったのですが)、自分の興味に近いものを取ったら思想史ばかりになったのですね(なお、これとは別に、半期2単位の、英語文献講読の少人数授業があり、これも教員との距離が近く、実質的な「ゼミ」的な役割を果たしていました。私は、法社会学と国際政治学の講読を4年生に取っていました。法社会学は何となく面白そうだったのが理由でしたが、国際政治学については興味もさることながら、大学院への進学を考えていたので、英語力の向上が大きな目的でした)。

 

自分がそのような教育を受けてきたので、2005年に明治大学の政治経済学部に着任して「ゼミ」を受け持つこととなった時、とりあえず自分が受けた教育を真似してみました。その時は「外交史」という科目名でした。「外交史」ゼミは2005年度から2009年度までの1期から4期まで続くことになり、2010年から11年にかけての在外研究を挟んで、2013年からカリキュラム改正で名前が変わって「国際関係史」ゼミとして再出発することとなりました。

 

かつての「外交史」ゼミのゼミ生は、まだ若く経験不足で頭の固かった私によくついてきてもらったと思いますし、それらのゼミには個人的にはかけがえのない思い出が沢山あるのですが、しかし正直に言って「教育」としては、私は明らかに間違っていました。理想論やスタイルばかりに固執して、何を教えるのか、何を学んでほしいのか、ゼミという場でゼミ生たちをどうすれば成長させていけばよいのか、そもそもゼミ生達は何を学びたいと思っているのかということを、私は全く分かっていなかったからです。今でも分かっているかどうかは怪しいところですが、当時は本当に何も分かっていませんでした。その点で、今でもかつてのゼミ生たちには申し訳ない気持ちでいます。

そこで、この在外研究を挟んで、私はゼミに対する考えや態度を大きく変えることにしました。まず形式的には、在外前から関わっていた十大学合同セミナーにゼミ単位で参加することにし、当時の運営委員の方にお願いしてそうできるようにしてもらいました。またさらにいろいろと考え直し、根本にある前提は変わっていませんが、自分の中で原則やイメージを固め、それから大きく逸脱しなければ「できるかぎり学生が望むこと」をやるのがいいだろう、と思うようになりました。では、私がゼミに対して持っている原則やイメージとは何でしょうか。個別ガイダンスで話していることでもありますが、ここにまとめておきます。

 

 

前提:大学は学問的活動の場であり、学問が維持され再生産される場であること。

 

原則①:ゼミは教員とゼミ生が一緒になって作るものである。教員が一方的に教える場でも、学生だけで活動する場所でもない。

 

学生だけで活動するのであれば、サークルなり、自らの団体を立ち上げればよいのです。明治大学に限らず、学生が主体となって立ち上げた学びのプロジェクトは多数あり、実際に様々な成果を挙げていると思います。ゼミはクラスでなければ、サークルでもありません。他方で、ゼミでは例えば語学や大教室の授業のように、教員が(体系的にであれ、もしくは一方的にであれ)知識を教授する場所ではなく、その学問について、一緒に考えていく場所であると思っています。

 

 

原則②:ゼミは学問を接着剤とする人間集団である

 

私がゼミでイメージするのは太陽系です。太陽に当たるのは学問そのもので、その学問に引き寄せられて惑星となってその周りを回っているのが、教員とゼミ生なのです。教員が太陽である訳ではありません。教員も、ゼミ生と一緒に国際関係史という学問分野に魅かれて回っていて、ゼミ生と一緒になってその学問分野について考える、そういう存在でありたいと思っています。それに、教員はいずれ定年などで大学を去ることになりますが、そのゼミ(国際関係史ゼミ)というのは残るのですから。

 

 

国際関係史について

 

 ということで、全ての始まりは「国際関係史」という学問分野に魅力を感じて頂けるかどうかにある訳ですが、では、国際関係史とは何でしょうか? 実際のところ、「国際関係史」という名称はカリキュラム改正を受けて登場した科目名であり、私はこれをもともと専攻していた訳ではありませんでした。ちなみに、私のコアな研究は、「外交史」から始まりました。もしくは国際政治史、と言ってもいいかもしれません。「国際関係史」という名称は、自分の専門とはややかけ離れているのでは、と最初は危惧したのを正直に告白しなければなりません。しかし、自分が色んな研究に手を伸ばしていくうちに、コアな専門としての「外交史」だけにやや物足りなさを感じていくようになりました。英語では外交史はDiplomatic Historyといいますが、Diplomatic Historyという研究にはある種のバイアスがかかっており(バイアス等に関する説明は非常に長い話になるので割愛します)、どちらかといえばInternational Historyという名称の研究に親近感を感じるようになりました。しかし、このInternational Historyというのは定訳がありません。直訳すると「国際史」ですが、この名称は日本語としてイマイチで、誰も使っていません。その代りに使われることが多いのが「国際関係史」なのです。そういうこともあって今では、私はコアな研究手法としては外交史的手法を用いながら、International Historyを専門としていると思っています。

ではInternational Historyとは何でしょうか? 実は、ある英語圏の大学院生向けのテキストには「International Historyが対象とする領域は確定していない」とはっきりと明記されています。国際関係史とはどういう学問なのか、すでにゼミ生がページを割いて説明してくれていますが、私も自分の講義では100分一コマ丸々この説明に充てています。ですので、ここではその詳細は控えますし、ゼミで扱う「教育として国際関係史」と講義で扱う「学問体系としての国際関係史」は必ずしも100%一致しなくてもよい、と私は考えているので、次のような問いに取り組むものと考えてもらえればと思います。

どうしてこの世界はこうなったんだろう」「これから、この世界はどうなるんだろう」

「これから、この世界はどうなるんだろう」ということを考えるために「どうしてこの世界はこうなったんだろう」を考えるのが国際関係史ゼミだと私は、今では考えています。とても漠然とした問いですね。私はそれでもいいと思っています。担当教員である私としては、私のゼミをありがたくも応募してもらう方には、この二つの問いのどちらかを(できれば「どちらも」と言いたい所ですが、無理は言いません)自分の中に持っている人を歓迎したいと思っています。その上で、考えることに対して、もしくは学ぶことに対して貪欲である方、少なくとも「考えること」と「学ぶこと」という行為にリスペクトを払える方が入室してくれたらいいなあ、と教員としては望んでいます。

 

 

ちなみに上記の二つの問い、これも私が考えたのではなく、かつてのゼミ生達が考えてくれたものです。私は、わかりやすく、しかし本質をとらえたこの問いを発してくれたゼミ生たちにとても感謝しています。多分、自分ではこのような言葉を作り出すことはできなかったでしょう。ゼミは、このような意味でも、教員とゼミ生たちが相互に学びあう場所であるのです。

 

とはいえ、多くの人がそのゼミに引き寄せられる誘因は様々で、実際のところは、先輩の雰囲気とか魅かれる人は多いと思います(というか、観察の限りほとんどの理由はこれですよね)。でも、動機がどうあれ、最終的に「入室」した人は、他のゼミ生や教員と二年間の「ゼミ」が続きます。その間に、そのゼミにはある種の人間関係が出来上がります。それは、学びを通じた結びつきです。議論をし合い、色んな考え方に接する中で、学問を通した人間関係を作っていくのです。「ゼミ」はそういう人間関係を育み、学びを深めていく場として機能してほしい―。

 

いろいろ考えて、私はそういうイメージを「ゼミ」に対して持つようになりました。そしてそのようにゼミ生に対して伝えていったのですが、8期のゼミ生たちが、その関係を「学友」という言葉で表現し始めました。「学友」は実際辞書にも載っていて、手元にある大辞泉には二つの意味があります。一つ目は同じ学校で学ぶ友人、二つ目は学問上の友人、です。大抵は第一の、高貴な身分の人が一般の学校で学ぶ際の友人を指すことが多いようです(「ご学友」といった表現がありますね)。しかしここでは、第二の「学問上の友人」に近く、同じ学問を学ぶことで得られる人間関係や信頼関係に基づく友達―、そういうイメージです。

 

 

このイメージは、私だけが作ったものではなくゼミ生も一緒になって作ってくれたものです。ゼミの雰囲気や人間関係は実際のところその期その期でだいぶん違うものですが、沢山学び、沢山議論することで培われるものは確かにあると思います。ですから、ゼミは人間関係という場でありながら、その基本にはやはり勉強があります。ゼミとは、E.H.カーの言葉に倣えば、「人間関係と学問との間の絶え間ない対話である」と言えるのかもしれません。別のゼミ生は、基本に勉強があり、大量に勉強することはやはり必要になってくることから「知的体育会系」という言葉を使うようになりました(この用語は、検索するとビジネスではよく使われるようですね)。このようなゼミへのイメージは、レガシーとして残していきたいと、教員としては勝手に思っています。

 

ゼミ試に向けて

 

 以上のような私のゼミに対するイメージから、私はゼミ試を目の前にしている方に対しては二つのことを言いたいと思います。一つ目は、もしゼミに入りたいのであれば、そのゼミが何を望んでいるのかをよく考えることです。それは別に、この国際関係史ゼミに限りません。数多くのゼミがありますが、そのゼミごとにゼミ生に求めているものは違っています。その求めているものを充分に読み取って(それは必ずしも、公的に表明されたものとは限らない場合もありますので)、それに対して自分はその求めているものを提供できるのか? 求めているものを準備できるのか? といったことを考える必要があります。国際関係史ゼミですと、①国際関係史という学問分野に対する興味関心を分かり易く、説得的に他人に対して説明できる能力、②ゼミに入って何かを学びたいという意欲この二つを示すという点に尽きるのではないでしょうか。あとは、正直運しだいと言うところもあります。

 不幸にして、第一志望のゼミに落ちる、という場合もありますね。私の人を見る目はそれほど確かでもないので、短時間でのやり取りでは、やはり意欲や能力について、判断を誤る場合もあります。それは大変申し訳ないです。ですが、ゼミは人間関係である訳ですが、人生においてどのような人間関係が構築されるかは必然と偶然のミックスであるとも思っています。どのゼミに学ぶことはあるはずです。自分が求めない限り、誰も何も与えてくれません。偶然で入ったゼミで必然のようなことが起こることもあるのです。

 

 考えられるだけの準備をしたうえで、当日はリラックスして望む。それでよいと思います。

 

 

最後に、ゼミは大学34年生の学生生活の中心で、あるゼミに入ることで人生が変わったりするのかという最初の質問に戻りましょう。これまでの文章を読んで下さった方にはお判りでしょうか、最初の問いについては、学生生活の中心となるかではなく、あなたがするかどうかが問題なのだと、お答えしておきたいです。そして二番目の問いについては、そうだ、とお答えします。なぜならば、あるゼミに入ることであなたが身を置く人間関係は、そのゼミで唯一無二だからです。それぞれの人間関係が違うのだから、当然違う人生を歩むことになるのです。でもそれは、どの人間関係であってもそうなのではないでしょうか。サークルも部活も、何かしらの人間関係を求めて参加する訳ですが、その出会いのたびに、あなたの人生は変わっているのではないでしょうか。ゼミはある意味、そんな「ありふれた」人間関係の一つです。だから、リラックスして入り、入ったら、その環境の中で一生懸命頑張ってほしいのです。どのゼミも、学ぶ意欲のある人を歓迎しており、理不尽なことはまず起こりません(いわゆるアカハラは別ですが)。

 

 

 毎年、学ぶ意欲のある学生と出会える教員という職業はとても恵まれていて、私がこの仕事をしていて本当に感謝している点は、そこにあります。どうぞ、扉をたたいてください。楽しみにお待ちしております。